見つけておねがい見つけないで

幸福は証明できない

欲望と商業と

大学で商学部を選んだことを長いこと後悔していた。興味がわかないくらいならまだしも「商業活動が嫌いなんだ」と、入学してから気づいたとき、これはやっちまったな、と愕然とした。商業が嫌いっていうこれまたざっくりした表現しかできなくて、これは己の勉強不足ゆえ解像度が低すぎるのだけど、やはりなんというかその「香り」が好きじゃない。今着てるその服も、さっき食べた苺も、商業の末にお前の手元にあるもんだろうと言われたらもう何も反論はできなくて「ごめんなさい岩になりたい許してください」としか言いようがない。

 

それにも関わらず、商学部でもゴリゴリ、経営やらマーケティングやらを勉強するゼミを志したのは、もはや真面目なのか考えなしなのかよくわからない。ともかく暇だったし、中退の二文字が頭をちらつき始めた頃だったときに、なんだか夢中になれそう(ならざるをえなそう)で真っ当と思える選択肢がゼミだった。選考に教授との面接があって、わたしは何も話すことを考えてなかったけど志望理由を聞かれて「わたし商業に興味ない、なのに商学部入っちゃった、でもなぜかわからないけど学ぶ必要があると感じる、学ぶ場としてはこのゼミが最適な気がする」と率直に伝えた。今振り返ると本当に失礼だし言ってることが意味を為してないのだけど、教授は「なんで興味ないの?」と聞いてくれた。その質問になんと答えたか覚えてない。その場で少し考えて、適当なことを言ったけどうまく答えられなくてまたそのときも素直に「よくわかりません」みたいな顔をしたと思う。そんなこんなで面接は終わり、うまく答えられなかったことが記憶に残った。わたしにしては珍しく、面接という類の自己表現で嘘をつかなかった稀有なケースだったように思う。興味がないというのも、勉強する必要があると思うというのも、どちらも本心でそれ以上考えは及ばなかった。

 

そんなこんなでゼミに入ってからは商業全般について勉強して、経営やマーケティング関連の用語も一通り覚え、無事に大学を卒業した。大学まで出しておいてもらって、その専攻に興味がなかったなんて言うのはたぶんあまりよくないことなんだろうけどこんなところで嘘をついても仕方がない。あるべき姿とのギャップを感じては、ごめんなさいと誰かに向かって呟いている。苦しかったけど、勉強しておいてよかったなと社会に出てから感じることが増えた。卒業してすぐは諸々の理由から、営利団体ではない組織に入ったから、商業的価値観からはこれでおさらばだと思っていたけど現実はそう甘くなく、今度は業務があまりに不向きなのと、組織を支配する雰囲気に重さにやられてたった1年半で辞めてしまった。書いててつくづく適応力と柔軟性の欠如加減にあきれる。

 

その後はメディアの編集職についた。文章を書いたり編集したりする仕事はずっと興味があったから仕事は楽しかったが「商業」の壁に再びぶち当たった。企業が運用するメディアは広告活動の一種で、言うまでもなく商業ツールなのだ。しかもWebメディアの記事は爆発力と人の目に触れられるかどうかが勝負。爆発力は、端的に言って「バズる」かどうか。人の目に触れられるためには、SEOで上位表示されることやSNSでの言及が必要になる。幸い、わたしが担当したメディアは、バズることよりブランディングアーカイブ機能に焦点を当てたものだったので救われていたが、たとえば「Yahoo!ニュース」や「BuzzFeed」の芸能記事のようにバズること、広められることに重きを置かれていたら、たぶん今と比にならないくらい大変だっただろう。世に出て誰かの目に留まってしまう原稿を、お金をもらって作成するには、それ相応のポリシーが必要だった。強い言葉を使わない、誤解を生みそうな言葉は必ず、解釈が分かれそうな言葉はできるだけ別の言葉に置き換える、取材記事の場合は取材に応じた当人が消したくても消せないタトゥーのような表現にならないように細心の注意を払う。本当はもっと、読まれるための表現を探すべきだったのかもしれない。きっと読まれるための工夫は強い言葉や、Webのニュースにありがちな意図的な省略や強調で人の欲を掻き立ててクリックさせるような、そんな手法ばかりではないはずだ。正解がないことはわかっていたが、ポリシーもの一つもなく仕事をしているわけではなかったので良しとすることにした。取材記事を編集するとき、当人が伝えたかった言葉を、当人が実際に発した言葉と同じかそれ以上に輝くように表現を考えるときは時間を忘れて没頭できた。これでよかったと思っている。

 

話が脱線したが、商業メディアでありつつも「いかに読まれるか」という点からは一定の距離を保って仕事をしていた。それでも企画やメディア戦略の部分を考えてくれと言われると、商業的視点を用いて提案しなければならなくてそれはかなり苦痛だった。資料はそこそこにこしらえて、中身は筋が通っているのかもしれないが、血の通ってない提案をしていたかもしれない。実現可能性のあるものや、目の前のクライアントが喜びそうな提案をすることは得意だった。大当たりすることはないだろうな、とはじめからわかりきっているような無難な提案は、時に受け入れられ、時にスルーされた。当たり前だ。提案するうえで、突拍子も無いことは言わなかったしそれなりに型に当てはめたものを持っていけたという点で、学生時代に勉強したことは大いに活かせたように思う。ただ、心の底から沸き上がるような興味も、商業的な視点も、いつまでたっても宿らなかった。

 

商業的視点とは何かと、浅い知識と手法でいくつかあげるとするなら、いま、人がどんなことに興味を持ってるかとかどんな生活リズムだとか、どんな記事がよく読まれていてその理由は何かとか、そういった分析をすることだ。わたしはそれを知ることそのものが苦痛だった。「大したことじゃないだろう」と目の前のデータやら根拠資料やらを広げて、そう思ってしまう。興味なんて移り変わるし、そんなに綺麗に区分けできるもんでもない。だいたいSNSに流れてくる広告だって好みでないものばかりだ。よくわからない海外メーカーのペラッペラな生地でできた2,999円〜のワンピースなんて買うもんか。ニーズなんて言葉は綺麗だけれど、誰がそんなもんわかるんだ?って思っていて、多用しがちな言葉だけど時々で変わるその中身について確信をもって提案したことなど一度もない。だいたい、他人の欲望を周辺から探って、ともあればねこじゃらしでくすぐってやろうなんていう魂胆が、わたしは好かないんだよ。Web記事のタイトルもマスコミだってそう、youtubeのサムネイルだって、本の帯だって。人の目ばかり気にして書いたnoteの文章だって。なんだってそんな、他人と金のために人の欲望の探り合い、くすぐり合いみたいな小学校のクラスで起きてた噂大会みたいなそんなことの延長じゃないか。えーん、ぬいぐるみを抱きしめて眠りたい気分になる。

 

好きと嫌いが極端に混在した環境に身を置いていたからこそ、気づけたのかもしれない。どうやら「欲」と向き合うことがうまくないようだ。そして商業活動は得てして、人の欲と強い関係がある。そこから目を背けたくて、商業を敬遠してしまうのだと、最近になって気が付いた。なぜ、商業に嫌いなの? という質問に、五年越しに答えることができてよかった。他人の抱く欲望に対して、自分の欲が伴わないときはなおさら、他人が抱く「欲望」から目を背けたくなる。「俺が目立ちたい」「わたしが一番価値を出してる」「たくさんの人に読んでほしい」「どうだ、いいこと言っただろう」「これがわたしのライフスタイル」「ニーズ」「続きをクリックさせよう」

表現の端々から感じるこれらの欲を眺めて、時々疲れてしまう。でもそんなの誰にだってある。自分にだって間違いなくある。人間は全部入りのごちゃごちゃした、多面的な存在で、その中で欲なんてほんの一部分だってことを、もっと理解したい。自分や他人のことを許すとは、そういう包括性のことをいうんじゃないかと思う。欲を汚いものだと思ってるわけでもないのになぜかとてもいっぱいいっぱいに膨張している獣みたいに見えて、目を逸らしたくなる。でも愛せるようになりたい。なでなでしたい。どのようにしたら人のむき出しの欲と丸腰で対面できるのかはまだわからない。