見つけておねがい見つけないで

幸福は証明できない

風の匂いに敵うものなんてない、たとえ言葉をもってしても

 調子が悪い時はたいがい「愛」「正しさ」「概念」「教育」などおよそ実体のないものについて考えている。それらに何かしらの定義をつけたくて、言葉を探して思考を巡らせている。今もそうだ。だいたい何も生まない。そういうことか!と目から鱗が落ちる事実を頭の中からひねり出すこともできなければ、うまく言えたぜ、へへとほくそ笑むこともなく、ただぼんやりとした時間が過ぎていくだけ。

 で、そういうものについてひとしきり考えた後はだいたい感傷的になって、今度は過去を振り返ったり未来を憂いたりする。刻々と変化する時制についていけなくなって、なんだか誰かに触れたいような衝動に襲われる。これも全部、感覚的な話だ。たぶん誰かと共有することはできない。もしかすると「わかる、わかる」と言ってくれる人もいるかもしれないけど、わかるはずなどないのだ。シャッターを閉めてしまっているから、商店街にどれぐらい人通りがあるかもわからない。

 

 温かいとか、優しいとか、細かいとか形容詞が厄介で、それを他人と共有するのは意外と難しい。そんな形容ばかりでちっとも実体を伴わない言葉を使って、独り言ですよという顔をして。客観視するとちょっとみっともない。けど別に、誰に迷惑をかけているわけでもなく、ただ自分のやるべきことを放棄してぼーっとしているだけだからいいのではないか。

 

暑いね

ってTwitterで呟いても、私がどれぐらい暑いかとかどんな部屋にいるかは誰にも伝わらない。伝える気もないけど、ただ言いたくて、暑いねって言う。ずっと独り言を言っていても気が狂わない人はいるのかな、誰かに向かって話しているつもりになればいいのかな?だとしたら分かり易く話さなければならないし、ううん。

窓を開けると風が入ってきた。「いい風が入ってくるよ」とママの方を向いて話したのは私だったか、それとも窓を開けたのはママで「いい風が入ってくるよ」と言ったのはママだったのか。記憶は定かではない。いい風の匂いを嗅ぎたくて、窓の近くで鼻から息を吸い込むと、それは形容できないけど確かにいい風の匂いがした。どんな言葉を他に充てても、やはりそれはいい風としか表現しようがなかった。いい風の匂いがするよって言って伝わる人が側にいるのはすごく幸せで、それはどんな言葉を思いつくことより、しっくりくる言葉を充てられることより大切なことだと実感して、少し気持ちが落ち着いてきた。

 

風の匂いをもっと存分に嗅ぎたくなって外に出た。水を買いに行こう。風の匂いだって、実体がない。説明がつかないけどそれを体で感じるとどうしてこうも地に足がついたような、生きているという実感がわくのだろう。ニュースで流れてきた、狭くて暑いところで死んでしまった子どものことが頭をよぎって、生まれ変わりとかあるのかなと思った。あってほしいなと思って、できれば命が終わった瞬間に本人からは記憶が抹消されてまたすぐに、存分に風を感じられるところで生を受けてほしいなんて、やはりまた何も生まない思考が浮かんでは消え、明日には消えてて誰にも説明できなくて、泣きそうになる。