見つけておねがい見つけないで

幸福は証明できない

今日も明日も、働くことははたして無味か

f:id:hiyoko22-dadubora:20201027024951j:image

 

 私にとって仕事とは、日々の生活と借金返済、少しの贅沢と親孝行という夢を叶えるための手段でしかない。

 

 仕事を通して成長したいとか世の中に貢献したいと思っていないし、サラリーマンの出世競争に興味はない。出世した先で石油王と同じくらいの待遇が手に入るなら挑戦してみる価値はあると思うが、どう考えても出世にかかる労力と得られる待遇が見合わないと思うから。無理せずいけるポジションまでいけたらよいし、どこにもいけなくても構わない。

 昔は「他人から仕事ができない、役に立たない人間と思われたら自分自身に価値がないも同然、だから役に立つ人間にならなければ!!絶対に!!!」といった強迫観念をもっていたが、さすがに一年強で転職を繰り返し3社も経験してみると、役に立つも仕事ができるも、業種や社風、評価者との相性によって真逆の評価が下ることすらあることを身をもって知り、自然と薄れていった。

 もちろん今でも求められるレベルの仕事ができずに落ち込むことはあるけれど、思うにもともと人間の存在価値は"ないものとも言えぬし、あるものとも言えない"……の境地に達している。なので過剰に落ち込んだり気にしたりしなくなった。反面、強迫観念のエンジンがきかなくなったので、もはや仕事に対する自発的なモチベーションはないに等しい。

 

 こんなマインドでかれこれ社会人4年目も後半戦に差し掛かっていて、これはこれで穏やかでよいのだが、ちょっぴり心許ないのも正直なところ。だってどうせこれからも働くならば、仕事をしていて自分の心が動く瞬間くらいせめて知っておきたい。もしかしたら強迫観念に代わる次のエンジンになるかもしれないから。……まとまってはいないものの、今しがた考えたことをここに留めておきたい。

 

 前職での仕事は編集者でクライアントワーク、今は業務系コンサルの仕事をしている。転職を決めた後わりと多くの人から「全然違う仕事だね」と言われ、今も「まったく別の仕事をしていたんですね」的なことを言われるが、私はまったくそう思わない。というか、むしろ同じような仕事だと思っている節もある。(だいたいホワイトカラーなんてどこもみんな似たようなもんでは?と思ってる。決して世の中を舐めてるわけではない。)

 

 どこが同じかと言うと、まずは一にも二にも「言語化」が重要視される点。次に、一人あるいは仲間内では完結せず、クライアントと併走、またはクライアントとその他のステークホルダーを含めた輪の中心で音頭を取ることが求められる点。

 詳細は省くが、編集者は原稿内の一言一句に、コンサルは資料に記載する文言や言葉選びにこだわる。どちらも、こちらが選んだ言葉の連続それ自体が商品だからだろう。伝えたいことがもっとも的確に伝わる言葉を選べた瞬間の高揚感は、Twitter140字で言いたいことを言い切れた時の感覚に似ていてクセになる。

 

 それに仕事でも私生活でも、多数の人間を巻き込んで物事を前に進める時は、必ず言葉が必要だ。わざわざ他人を巻き込んでまで失敗するかもわからないことをやろうなんて私生活では絶対に思わないけど、仕事とあれば仕方ない。失敗するのはいやなので、できるかぎり言葉を尽くす。だけどビジネスライクな言葉の応酬だけでは結局、人の心は動かないから、時に下手に出るような物言いをしたり、時に発破を掛けたりと丁寧に言葉を選びながら中心で指揮をとる。

 ……まあこれは理想で、実際は言葉選びを間違えてニュアンスがうまく伝わらなかったり遠回りな言い方で誤解を生んでしまったり試行錯誤しているのだけど。言い方一つで人が引き受けてくれたり、逆に反発されたり、物事がうまく回ったりする回らなかったりする様を見ると、人間心理について考えさせられる。こちらの意図がうまく伝わらず混乱させてしまったり、相手が困惑しているのを見ると、非常に心がザワザワして、すぐさまリカバリーに走る。それはもう光の速さで釈明に走る。小心者といえばそうなんだけどただ真意を伝えたいの一心で。

 

 知らず知らずのうちに言葉が重要視される仕事を選んでいて、どんな場面でも、いま何を発すべきか、ここで何と書くべきか、何と言うべきかをひたすらに考え続けているように思う。それは転職しても仕事をする環境がオフィスから自宅になっても変わらない。前職でも現職でも、落ち込む時は何かしら必要なことがうまく言葉にできなかった時で、逆に達成感を感じる時は、自分が選んだ言葉で真意や意図がうまく伝わった時かもしれない。対して、売上を達成したとか何か物ができたとかは、正直どうでもいい。商材や、やってる仕事自体に思い入れはないんだと思う。だからモノづくりとか言葉を必要としない作業ゲーはあんまり向かないのかも。

 

 そもそも他人とは、しかも仕事上で関わるような薄い関係性の他人とは基本的に分かり合えないだろうという前提のうえ、到底通じ合えないと思っていたのに言葉を重ねた結果、今このひとときだけでも通じ合えたのね!分かってくれたのね!という驚きは、わりと単調なサラリーマン生活の中でインパクトがある。

 もともと花が咲くような場所じゃないコンクリートの道路の割れ目にタンポポが!みたいな温かさがある。私はそんな経験を集めてたまに思い返し眺めて、そのたび密かに感動して、少しずつ人間性を更新しているように思う。