見つけておねがい見つけないで

幸福は証明できない

凡才肌のしょっぱい研鑽は、私をどこかへ連れていってくれるでしょうか

高校生の頃から、一に表現、二に語感、三に活字の見た目を重視して本を読んできてしまったので、登場人物の動きとか話の展開とかが「ま〜〜〜どうでもよく」て、全然追えないんですよ。

 

”本の内容は忘れたけど、あの一文がずっと残っている”とか

”文字から音がする!!!”だとか。

”この表記はひらがなだからこそ効くよね”とか

”映画やドラマを観ていて、セリフの内容より俳優の一瞬の表情にミゾミゾする”とか。

 

そういう鑑賞の仕方で一日が満たされちゃう。

同じような鑑賞の嗜好の人は絶対いると思っていて、そういう人は多分ストーリーとかそれほど重視していないはず。真剣になって観てるドラマだって、最後にヒロインと相手役が結ばれようが離れ離れになろうがどちらでも構わないんだ......。

 

でもこの嗜好がお話を書いたり、文章全般を書く上で足をひっぱっている。非常に。

 

まず話が進まない。

(自分が書いてるストーリーそれ自体に)興味がわかない。

一瞬の情景は浮かぶけど、そこから先が・・・。

 

どんな本読んでも解釈が散文詩的だし、書いてることもそう。(最近の投稿はもう書けないやってなった結果、散文詩の方向に逃げてる)

 

(今、散文詩って定義なんだ?ってなってGoogle検索したらコレ)

(...省略...)何をもって「散文詩」というかは不明瞭であり、厳密な定義は難しい。特徴として比較的短い散文で、詩に見られる論理の飛躍・詩的なレトリックを用いたものなどを散文詩とみなすことが多い。だが、例えば梶井基次郎川端康成の「掌編小説」を散文詩と呼ぶべきかどうか、という問題もある。極めて短い小説と散文詩の区別はほとんど不可能と言える。逆にこの問いは「小説とは何か」という問いにも関わってくるだろう。

 

「小説とは何か」なんてそんな難題に挑むつもりはなくて、ただ話を完結させたい。

人間が何人か出てきて、何か話して感情をもって展開が変わっていって、最後はちゃんちゃんっていうストーリーをつくりたいの。じゃないとどこにもいけないし、早くしないと今せっかくもっている玉がなくなっちゃう!それはイヤ!

 

ストーリーを追うとか構成を追う癖を無理やりにでもつけないと、多分この先はないんだろうなあ、と薄々感じている、ので、世の中にあるお話を逆算して、構成を100本くらい追ってみようと思う。

 

・絵本と紙芝居を振り返る

・大好きなムーミンのお話

・短編×ラノベ

・短編×純文学

 

ラノベ作家とかほんとに構成力とかストーリー展開力がすごいんだろうな……。(語彙)

私に書かせたら、主人公が朝ごはん食べるシーンで終わりそうだ。敵まで辿り着かない。戦いの場に着くまでの道中で花とか鑑賞してそう。

 

結局のところバランスで、ストーリー偏重だと浅いものになるし、表現偏重だと読むに耐えないつまらない展開&誰にも伝わらない、意味不明なものになる。

どちらもないと成り立たない。小説は音楽や写真、絵とは違って、まずは頭で理解してもらわないと、味わってもらえない。

 

構成力とストーリー展開力。

を、身につける。後天的に。凡才だから。

こうやって書くとなんかしょっぱい。


自覚しちゃうとかたはらいたし。

しょっぱい研鑽は、いたって凡人の私を、どこか遠くへ連れていってくれるだろうか。

カッコつけた言葉では嘘になるから、やっぱり率直な言葉で語らせてくれ、椎名林檎と東京を

 

カッコつけた言葉をたくさん使ってしまった。反省している。 

arama.hatenadiary.jp

 

違う違う違う、読むに耐えないかもしれないけどここは刹那の墓場。

十年余り椎名林檎の愛好家をやっているというだけのただの一般人、ただのOL。

率直な言葉で語った方がいい。

 

 

もうね、あの椎名林檎が”TOKYO”という歌を歌うんですよ。

ついに東京ですよ。正しい街を聴いて、百回も二百回も三百回も聴き続けて、自分が福岡県出身じゃないことを呪いまくって、百道浜室見川も見たことがないことを恨んで、正しい街なんてないと嘆いて。

そんな頃合いに<東京>ときたらもう泣いちゃうでしょうよ、タイトルを見ただけで。

 

 

最初タイトルを見たときは、いやもうそれ『静かなる逆襲』でやったんじゃないかって思ったんだけど、全然違った。予想を大きく裏切ってきたね。

椎名林檎になってまで商業抜きでこんな孤独を感じることがあるのかと思うと、高校時代の国語教師に言われた「どんな道を選ぼうと人生そうは変わらない」の言葉を思い出してしまう。それぞれの人がそれぞれの道を生きているわけだけど、その歌を聴いた人やその物語を読んだ人が「これは自分のために書かれたものだ」と感じさせる力こそ、音楽家や作家の力量と言わざるを得ないよね。はあ。遠すぎやしないか。

 

 

そして彼女が今出している曲、今というか『三文ゴシップ』『日出処』そして今作『三毒史』には心からの共感ができないことが口惜しい。でも人生が楽しみになる。将来味わう感情を小出しにされている感覚がして。

『無罪』『勝訴』『加爾基』に始まる三部作と、彼女が20代の頃に出した曲は理解できる。ああその感情知ってる!ってなれる。でも一気に『三文ゴシップ』からは遠くなってしまった。もう少し歳をとれば分かるのだろうけど。

 

 

東京はいい街だ。仕事の関係で東京を離れていた時、新宿タカシマヤへと続く謎の橋の上からその夜景を眺めたときに、「もし私に力があったらペンだけ持ってここに戻ってくるのに」なんて思ったことが懐かしい。結局、なんの力もないし、ろくにペンも持ってないけど、こうして、のこのことこの街に戻ってきて、需要のない排泄を繰り返している日々。だけど今日もこの街は賑わっていて優しいよ。

私のことなんて見ているんだか、見ていないんだか。

安心感でいっぱいだよ、あったかくて大好きだよ、東京。

 

 

 

椎名林檎『TOKYO』はどう生きたとしたって<不惑>の頃に死にたくなる私たちを描く

2019年5月27日、椎名林檎の新アルバム『三毒史』がリリースされる。

リリース前の1ヶ月間は宣伝モード一色で、西武新宿駅前の”ユニカビジョン”でのライブ映像配信に、渋谷駅周辺に現れる巨大ボードによる広告で、愛好家の心が賑わう。

一部配信も始まっていて、5/15に配信開始された『TOKYO』は今回のアルバム収録曲のうちの一曲。しかも全13曲の7曲目に配置されている、シンメトリーの中心となる曲だ。

 

東京<TOKYO>と名のつく曲なんて世の中に五万とあるのに、この題名をつけるとは。ついに王道を闊歩するのか、椎名林檎。なんて予想したのもつかのま、そこで歌われているのは、不惑がふと立ち止まった時に感じる「死」の気配だったーー。

 

不惑とは数え年で四十(しじゅう)を表すのだという。

『TOKYO』に充てがわれている詞は以下の通り。

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引用: 椎名林檎 - New Album「三毒史」特設サイト

 

「短く切上げて消え去りたい」ってこの上なくストレートな表現。

林檎さんの詞は分かりづらいと言われているけど、

叫びの肝要となる言葉は、言い換え不能、率直だ。

 

死にたくなるのは、”そういう生き方”をしてきてしまった一部の人間だけだと思っていたけど、どうやらそうではないらしい。

 

私に向かって「死にたい」とこぼしてきた女性の姿を思い出す。その頃彼女は、ちょうど不惑を迎える準備をしていたのだろう。

死にたいと言った彼女の姿は今でも脳裏に焼きついている。それから私は、”そういう生き方”をしてはいけないと、半ば強迫観念を抱きながら生きる道を探っていたように思う。でも、根本的に違うのかもしれない。それは生き方云々で、見るのを避けられる光景ではないらしい。

 

彼女は、ただ不惑の先に、死の入り口を見ただけだった。それは特別なことではなく、意識するか無意識であるかは別として、揺籠から墓場までのうちで誰もが直面する光景なのではないかと考え直した。

 

 

椎名林檎の初期三部作といわれる『無罪モラトリアム』『勝訴ストリップ』『加爾基 精液 栗ノ花』。中でも、楽曲タイトルや曲調から「生死」と結びつけて解釈されがちなのが、3rdアルバムの『加爾基...』である。

加爾基 精液 栗ノ花

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林檎さん自ら『三毒史』のライナーノーツの中で、

「今回のアルバムは『加爾基...』に近い、揺籠から墓場までが直接的モチーフになっている」と言っているように、『三毒史』収録曲からは、「自らの生死に対峙する切実さ」を確かに感じる。

 

全11曲の『加爾基...』を支えるのは、シンメトリーの中心である6曲目『茎』。「立つたら 強く進まなくては」という詞から、強く生き直すこと、それすなわち「再生」の曲だと私は解釈している。だから『加爾基...』の起点になっているのは「生」である。

ならば『三毒史』の起点は「死」なのだろうか。

全13曲の真ん中に位置づけれられる曲『TOKYO』は、比較対象の『加爾基...』で同位置に据えられている『茎』とは真逆の内容だ。

 

彼女たちが死を起点にした光景を見るのは何故か。何がそれを見させているのか。

25年弱しか生きていない私には、正直なところ分からない。人生の終局を意識する故なのか、死への恐怖故なのか......。

易き解釈はしたくない。その答えは15年先までとっておくことにする。

 

ひとつだけ分かったのは、どう生きたとしても、<不惑>を迎える頃、私は死にたくなるだろうということ。あの日の母と同じように。

 

順調に生きたとして、死への入り口が見えた時「ああ、このことか」と15年後に答え合わせができるよう、24歳の私は「茎」を携えて生きていく。

 


椎名林檎 - 茎(STEM)~大名遊ビ編~