見つけておねがい見つけないで

幸福は証明できない

傘を広げテレビをつける

「音楽を聴いて元気になるとかそういうのママ全然わかんない」

何歳だったか忘れたけど、聞いた当初は、なんつう隠な発言、そんなんだから私はいつも流行りについていけなくて学校でいい感じに過ごせないんだよやめてくれ、と思った。けれど大人になって、徐々に母が音楽を必要としない理由、うーん、理由というよりもっと言語化が難しい、感覚的なところで腑に落ちた。音楽に限らず、あの人は自分の心をどうこうするために外にあるものをあてにしない。意外とそういう人は少ないこと、「音楽聞いて元気になるとかよくわかんない」を大声で言うのは、世間的にあまりよろしくないことは大人になる過程で知った。人に言うと、あんたの母親大丈夫かみたいな顔をする人は多い。彼女はすこぶる大丈夫で、私を育てるのも相当厳しかっただろうにいつも割と明るかった。自己嫌悪みたいなのが一切ないし、気分の浮き沈みもない。意識して一定を保ってるというのとも違う。「ママは努力って言葉が世界一似合わない」と嬉々として言うくらい自負があるようだから、別にがんばってご機嫌よくいるわけではなさそうで、単にそういう性質なんだろう。元気のでるようなメロディーで元気にならないし、悲しいメロディーで悲しくならない。熱が出ると元気がなくなる。宝くじが外れると少し残念がるけどあっという間にケロッとしている。人生を構成するいろんな要素のうち、自分の外、すなわち他人やモノや周辺環境に預けているものがかなり少ないんだと思う。ほぼないのでは。強いて言うなら娘の私くらいか。
部屋にダイソンの空気清浄機を置かなければ空気がこもって気がふさぐだの、炭酸飲んでやる気出すとか、あの人がああ言ったから悲しいムカつくとか人気のない温泉街に行って元気吸われたとか、毎日飽きもせず言ってる私はすごく普通だ。こうしてすごく普通に生きていられるのは、異常に安定しているあの人が育ててくれたからだろう。
 
「音楽を聴いて元気になるとかそういうのママ全然わかんない。音楽は何も変えてくれない、音楽なんて聴いたって状況は何も変わらないのに」
本当はここまで言っていた。あの人は自分の外側にあるものをあてにしていない。それを窮屈と思ったこともあったが、本当はあの人自身の方が複雑な心境だったのかもしれない。音楽を聴いて素直に感動したり、元気をもらったりできる人がうらやましかったのかも。私は彼女じゃないから、あの刺々しい言葉の裏の内心を推し量ることしかできないけどなんとなくそう思う。大人になって、今は、そういうものがなくとも身一つで安定していられる母の強さが誇らしく、たまに少し羨ましい。苦しい状況でも笑っていてすごかった。何かに救われるということは、裏を返せば何かにつまずくことでもある。救いのある人生の方が豊かじゃないかたとえ辛いことがあったって、という人もいるだろうし、本人からしたら100年映画の主役、それはそうかもしれない。別の表現だと人間らしい、とかいうのだろうけど。蜃気楼みたいにあてにならないものを追いかける行為は人間臭く、ものすごく弱い。弱くそれが尊いものかどうか私のような凡人は環境や他人に判断を依存してしまう。そんな堂々巡りをさせずに人一人育て切ったママはやっぱりすごくて、私は超絶ラッキーだ。
最近彼女は、このラベンダー色のコートを買ってくれとかメリーポピンズみたいな大きな傘を買って嬉しいといって写真を送ってくる。ベッドの上で傘を広げて見せてきた。もしかしたら今日は、歌番組を見て心打たれていたかもしれない。