見つけておねがい見つけないで

幸福は証明できない

もしかしてこれが(アダルト)……?

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最近読んでいる本と、たまたま流れてきたツイートと、リアルで考えていて言語化できたこと(現状に「満足している」状態ってもしかしていまのこの気持ち!?)を、忘れないようにメモしておく。

 

『「空気」の研究』山本 七平 著

最近読んでいる本。詳細はまたの機会で。

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

 

 太平洋戦争〜戦後の日中国交正常化、公害訴訟の例を用いながら日本社会を支配する「空気」の正体について解明している本。「空気」を壊す行為である「水をさす」の「水」の正体にも言及している。まだ読み切ってない。

「やると言ったら必ずやるサ、やった以上はどこまでもやるサ」で玉砕するまでやる例も、また臨在感的把握の対象を絶えずとりかえ、その場その場の”空気”に支配されて、「時代先取り」とかいって右へ左へと一目散につっぱしるのも、結局は同じく「言必信、行必果」的「小人」だということになるであろう。

大人とはおそらく、対象を相対的に把握することによって、大局をつかんでこうならない人間のことであり、ものごとの解決は、対象の相対化によって、対象から自己を自由にすることだと、知っている人間のことであろう。

仕事をしていてもその場の空気で決まってしまうことが多々ある。議論を深めなければならない重要なテーマほど、何度目かの会議で、突如ぽっと出てきた案に誰からともなく熱狂し、「総意」として決定。あとになってみれば決定の経緯も効果も、誰も振り返れない。なにがPDCAだ、笑える。

空気的決定を防ごうとして知識や経験、正論をただ振りかざすだけで同意は得られないし仕事は前に進まない。それはただの独りよがりである。

満足のいく仕事をするためにも空気の正体を知っておきたい。

序盤で出てきた「相対化」というキーワードはモノの捉え方すべてにおいて当てはまる。これは次に紹介する「まったり死にたい勢」が少しでも生きやすくなるために応用できるように思う。

 

「まったり死にたい勢」にめちゃ共感した話

 

これは母とも共有していて、人生そんなもんだよねって思っていた。別に特段不幸でもないのだが、明日を普通に楽しみにしている人がいるのも知ってる。

 

 

そうね、信用してない。死なないために生きてるね。そしてそれを隠すのが苦手だしいちいち隠す必要もないと思っているけど、やっぱりコンプレックスだよねっていう矛盾。

 

 

不信をずっと貫くのも、それはそれで超絶な根気がいる。

そう、わがままでごめん、だけど本当にそう思う。

生きていくのって根気でしかない。もうそれだけでキャパいっぱい。何かを積み重ねるとか正直どうでもいいし明日死ぬかもしれないし、遠慮しとくわって感じ。

だけど世界が一変する可能性があることにも気づいている。確かに一変した、一瞬の記憶もある。でも明日は、どうせ今日と変わらぬ明日だろう。今日は悲しくなかったし、今日と変わらぬ明日が来るならそれは貴重で、結構なことだ。

うん、ありがたい。夢いっぱいの明日を望むより、悲劇が起きないでほしい。もう半分諦めてもいるしこれでもわりと健康なので満足しているこの世界に。もう、明日とか今日とかに対して自ら打ち手はないと思ってる。

 

 

他者のニーズがないと生きていけないよね、うん。必要とされたいっていうかそれ以外に自分を維持する方法がわからない。ニーズに応えてないと暇になっちゃう。

何事も「承認欲求」で片付ける昨今の風潮は気に入らないけど、承認されるかどうか以前に、あなたのニーズを見せてください、それが起点です、ないと動けないです。って感じ。承認されるかどうかは次段階。

 

と、まあ、一連のツイートはめちゃエンゲージメントが高くって、共感の嵐だったところを見ると、多くの人がこういう葛藤を抱えて生きてるんだなあと思うわけです。別に私だけじゃない。「普通」と区分けされる人間は、むしろこういったわけで。それはそれで安心ですよ、同調、同調。とはいえ、皆やはり苦悩している。

 

なんというか、自分に向けられる他者からのニーズを感知、達成することができたり(仕事があるとか、勉強ができるとかね)そういう場所を見つけられた人はたまたま生きてるって感じなのかな。日頃から「まったり死にたい勢」がもし、昨日まで知る由もなかった悲劇に突然見舞われたら、ころっと死んでもおかしくないな、と思う。まったり死にたいから、ほんのり、死が身近にあったのだろうね。深いところで合点がいった。

で、相対化の話になるんだけど、わたしたち「まったり死にたい勢」は自分がいま身を置いている世界を絶対化しがちなのかなと感じた。

「クソだなこの世界(他見に行く気力もない)」

「この世界は最高、居心地抜群(他を見ない)」

「もうここから出たくない」

「ここから出ていけない」

「出るのが怖い」

「(思考停止)」

「もっとひどくなったらどうしよう、動けない」

「前にいたところには絶対戻りたくない」

 

自分から新しい世界をのぞきにいかないと、眼に映るもの、身を置いている場所で感じることが絶対化するよね。でも世界観を一変させられるほどの機会への切符は、気力体力時間金銭諸々整ってはじめて手に入れられるものだからねえ。

難しいけれど、自分がいまいる場所を絶対と思わないこと、もっと言えば世界に対して怯まないで進む気概は、これもほんのり持ち合わせていたいと思った。相対化するという選択をもっていたい。

足るを知った一瞬

他人と自分を比較して安心したり焦ったりしても、本質的に自分が身を置いている場所は変わらない。

ああ意外とみんなつまんなそうじゃん、わたしの方が楽しい、わたしの方が幸せって思っても、明日もどうせ満員電車乗るよ。明日もつまんない仕事はつまんないよ、そんな現状に満足しないだろうよ。わたしは幸い、今たまたま居心地のいい職場で好きな仕事を任せてもらって、満員電車で通勤しなくて済んでる。

一方でよ、高い年収や高いステータスに憧れが捨てきれない。

だけどじゃあ、〇〇さんの年収わたしより低いけど云々カンヌン、高いからどうたらって考えてみても、何も変わらない。本当に何も変わらない。他人の人生と自分の人生を比べてる暇はないし、足りてないもの合戦をしてもなんの意味もない。

仕事は楽しいかって聞かれても、作り笑いを浮かべながら「楽しい!」と言わない。ていうか言えない。なぜなら正直、やっぱり今でもまったり死にたい(めっちゃ使いやすいこの表現)し、生活ってそんな楽しくないし。

とはいえ満足してるのよ。平然と満足している。別に誰かに言わんでもいい、満足してる。

 

で、”もっと”が欲しいなら自分の行動で新しい世界を見に行く、以上!って感じ。

これが世でいう、満ち足りてる状態なら、随分あっさりしたもんだなと思う。

 

もしかしたらここから先がようやく、自分のニーズを満たせる世界なのかもしれない。こんなに居心地がよく貴重な時間も、絶対化した瞬間、味気ないものになるのだろう。

食べたいものもしたいこともたくさんある。ピアノも弾けるようになりたいし母孝行もしたい。母からそんなニーズは感じてないけど、わたしがやりたい。

満ち足りた世界の先にまだ別の景色が広がっていると思うと、たった今のグラデーションは、死にたいより生きたいの方が強い。