見つけておねがい見つけないで

幸福は証明できない

午前四時、環状六号線、ひとり

或る人はこう言う。

「そんなものはない」

「考えちゃいけない」

「見つかるはずないんだから」

例えば、本質。例えば、個性。例えば、生きる意味。あとは正しさ。どれもはっきりしないもので、それが何かと定義した瞬間、消えてしまうような概念たち。ないと言われても納得だし、あると言われたら信じて縋りたくなる。はっきりしてないものより、はっきりしてるもののほうが安心できる。だけど他人に「本質とは××だ」「愛って〇〇でしょ?」と決めつけられると、決め付けられたように感じた瞬間、そんなんわかってたまるかよ!!!と言い返したくなる。他人の定義は自分に当てはまらない。当てはまらなくてあたりまえだから、いちいち発見したみたいに言わないでほしい。それ嘘じゃん?嘘つきか、嘘だってことに気付いてない馬鹿じゃん!と、罵る気持ちさえ生まれる。それは私が意地悪で、心が刺々しくて不寛容だからなの?

そうして次に共感を求めると、また別の他人が言う。

「あると思ってるのかもしれないけどね、本質なんてものはない」

「もしかしてどうして生きてるんだろう?なんて考えてる。そんなこと考えちゃいけないよ」

「正しさなんて身を置く場所によって違うんだから決めきれないよ。探すのやめな、見つかるはずない」

もっともだ。もっとも、正しそうでお寺のお坊さんとかもそうやって言いそうだ。それを探すのが人生だ、と。それでわからないまま死んでいくのだと。地獄みたいじゃないか。そんな地獄を、知ったふりして何とも言わぬ顔で受け止めて、死ねってか?

奴らもお前も私も同じで、何かの答えを見つけたとはしゃぐか、悟りと諦観でわかったふうな能面か。何も違わない。奴らとお前と私と、何も違わないって異常。同じなのは人間で、みんな誰かの腹の中から生まれた瞬間ひとりなんだから同じなはずなくて、見つけるものだって見つからないものだって違うだろ。うるせーうるせーうるせー、違うんだよ。私はね、きゃりーぱみゅぱみゅになりなさい、って言われて育てられたんだ。きゃりーちゃんにはなれないし、ならなくていいけどあんなふうに自分が良いと信じるものをパシッと貫いてなさい、と。まだ始発が来てなくたって、悟りの世界でヨシヨシされるほど暇じゃないんだ。だったら免許証も持たず環状六号線を一人でぐるぐる回ってる方がマシだ。そうやって、やってやってやってまだ死にたくたい。

共感なんて食ってたら死ぬ。人の気持ちが分かるなんてことは一生ない。空気を読もうとする間に読まれる。人の強さはそこに現れない。分からないことに一人で悩んで、見つけた答えは隠しておける人になりたい。