見つけておねがい見つけないで

幸福は証明できない

24才のわたしが死ななくてよかった

コートも脱がずベッドの上に座り文章を書いている。筆記具をもちノートを広げるよりも手軽に。

頭がフリーズしてしまった。この一年は振り返りたくもない。泣いているか絶望しているか無気力でいるか、ほとんどどれかだった気がする。最後の最後だけちょっと走ってみたけど、結局すごく大きな岩に顔面からぶつかって血を流している。最近、文章の書き出しを考えるとき浮かぶ光景がある。細い管の中を赤い液体が流れていき、ぽとぽとと地面に落ちる様子だ。血より鮮やかな色をしてて、でも地面に落ちると色はなくなる。液体を吸い込んだ土の色が少し濃くなるだけである。

生きるか死ぬかにそれほど差はなくて、油断すると死んでしまうような気がする。死を試みたことはないがそう思う。だからいつも「生きねば」と律している。ちょっと苦しそうな人を見ると、死との距離を勝手に測って、ひやひやしてしまう。それを表に出すと優しさや心配というものになるんだろうか、たぶん違う。どちらにせよ表には出さない。彼や彼女が死にませんようにと少し祈ってまた自分の閉じた世界に戻る。

誕生日の前日に「油断すると死んでしまう気がする」なんて書いているのは、親が考える子のあるべき姿ではないだろう。親でなくても、これを読んだ人にそれこそ心配されそうだ。別に心配しなくていい。わたしは強い意志をもって生きる方に向かってる。

生きよう、生きようとしているがたまに間違えて、こうして顔面から血を流す。泣きながら歩き、玄関に足を踏み入れた瞬間に電気もつけずにただ気が済むまで泣く。今は泣き終わって「ちゃんと生きようと思ってる」というのを文章にしたためている。死なないために必要なのは、現状を正しく認識すること。「気のせいだ」「気の持ちようだ」なんて言ってると知らないうちに死に向かっている可能性がある。もし感受性の装置があるなら、一旦オフにしたいとも思うがそうなったら死んだように生きていくより他ないんじゃないかとも思う。

けっこうヤバイぞ、誕生日の前日にこんな派手な転び方すると思わなかった。なんていうかここまでなる前に止まらなかった自分が怖い。なぜこうなってしまったのか、何が引き金なのか、根本的な原因は?……多分こういう問いを先延ばしにしていた結果だと思う。一度壊れた車はそう簡単に元には戻らないのだ。もしかするとこの数ヶ月、生死のうちの死に向かってふらふらしていた瞬間もあったのかもしれない。

自傷行為は生きるための行動か、はたまた死ぬための手段か。

自傷行為ってなんだ、もしいま顔面から血を流しているのが自分の行動が招いた結果だとしたら、わたしはこれまで何をやっていたんだろう。考えるのも認めるのも恐ろしい。

だけど絶対に、生きる方向に向かってもがいていたはずで。誰がなんと言おうと自分が何をやってようと死にたくてやってたことなんてひとつもない。よりよく生きるとか丁寧に生きるとかそんなレベルの話はしてない。すぐそこにある死に引きずられないように生きるので精一杯だったが、その精一杯をやってのけた一年だった。

なんでいつも生死のグラデーションの境で彷徨っているんでしょうね。だけどなぜか、そのへんの人より、生命力強いだろうな……と本能的に感じている(驕り)のも事実で。じゃあこの矛盾はなんなんでしょうね。

ああ、いろいろ間違えてしまった。

止まったら死ぬ魚、なんだっけ、マグロだっけ。わたしは人間で、止まっても死なないからどうか一度立ち止まれますように。これから誕生日を迎える数時間だけでいいからちょっと止まって。

生きる方に向かって舵をとってきたから、たまに間違えてもちゃんと戻ってこれる、今回もまた。でも戻ってもまたグラデーション。生きる部屋、死ぬ部屋って分かれてるわけではない。だからこそ生きることを選んでいるという自覚をもって生きよう。

24才のわたし、とりあえず生きててくれてよかった。死のうと思ったことなんて一度もなかったけどひょんなことで死ななくて本当によかった。君の意志はわたしが引き継ぐ。絶対に生きぬくから、安心してちょっと考えてみてほしい。希望も期待も幸せも存分に思い描いてみてくれていい。自信なさげな猫背はやめて、背伸びしてもいい。あとは25才のわたしに任せてくれ、きっと大丈夫。頭がフリーズするくらい悲しかったことも、腹の底から悔しくて泣き崩れたこともあったけど、君が生きるためにとった行動は全部報われる。