見つけておねがい見つけないで

幸福は証明できない

ないもの探しが特技の悪魔を振り払ったとき、人は

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悪魔の証明とは、証明不可能なこと、証明するのがとても困難なことを悪魔に喩えたものをいう。

では証明できないものとはなにか。

それはあるものが「ない」という事実だ。目の前に消しゴムがあるか、ないかといった単純な例なら別だが、宇宙人がいるかいないかという問いになったら? 宇宙人がいることを証明にするには、ひとり宇宙人を連れてくれば事足りるが、宇宙人がいないことは確かな証拠をもって証明するには難しい。

火星にはいるんじゃないか、我々がまだ見ぬ土地には実のところすでに住んでいるんじゃないか、地球の隅々まで探したのか……「ない」ものの証明には常に反論の余地がつきまとう。つまり納得のいく証明にはなりづらい。

 

わたしはないもの探しが得意だ。

つまらない、買えない、持ってない、わからない、知らない、頼りない、そうじゃない、これじゃない、見つからない……ないないないない!

逆説的だが、なにかを「ない」と否定するのは根拠がなくても言えてしまう。ないというのは簡単だ。

たとえばSNSで「みんなからプレゼントをもらって嬉しかった!楽しい時間をありがとう」というキャプションをつけたなら、そこにはプレゼントの写真や然るべきみんなの写真が添えられることが多い。その事実があってこそ言えるものだ。

だけど「かわり映えしない日常。楽しいこと、なんにもない」という投稿であれば写真がなくても十分伝わってしまう。逆に「ない」ことを伝えるのに何か材料を与えてしまえば(たとえば自室のがらんとした部屋の様子だったりつまらなさそうな顔をした自撮り)、がらんとした部屋をどうこうアレンジしたらいいとか、顔がかわいいから大丈夫だとか、あちこちからご意見が飛んできてしまう。

 

ないないないないと言ってる人は、ないことを証明しようとしない。

本当に「ない」のかを探らない。

本当に?その「ない」は本当なのか?

ないもの探しをするのは、たったひとつ「ある」を探してくるより容易い。証明できないことが前提で、ないと言っているだけで許されてしまうから。

ないもの探しをしているうちに、自分が悪魔になってしまいそうだ。なにひとつ、これといったものを提示できない。ああまた、否定してしまった。提示できないと言ってしまえば、わたしは提示できるというよりよほど容易いのだ。

 

これからは「容易い方へ逃げていてはなにも手に入らない」と言うのではなくて、「何かを手に入れるため、これといったものをいつか提示できるようになるために、あるものをひとつずつ探していくんだ」と言いたい。

「ない」と「ある」は紙一重。悪魔と天使は二つの顔をもった同一人物。悪魔が首を振れば、天使の顔に早変わり。

ないものよりも、あるものを探して生きていけば、きっと手元に確かな手触りのある"何か"が残るような、そんな気がしている。それが何かはこれから分かればいい。これまでスルーしていた景色や事象に目を向けて、ひとつひとつ、「ある」「持っている」「できる」ことを証明するのは骨の折れる作業になる。だけとそうして手に入れたものは、やがて自信になって生きていくのを助けてくれるはず。

なにもない人生だ、なんの才能もなかった、なにも持っていない、……でもそれって本当だっけ?と悩む、ばかばかしい(けどちょっと尊い)時間からもうそろそろ解放されたい。