見つけておねがい見つけないで

幸福は証明できない

会うことすらもままならない

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高校の卒業式当日か、卒業式を控えた数日前に、現代国語の先生がこんなことを言っていた。

 

「あなたたちは卒業するということがどういうことか、考えたことがありますか。卒業したらこの校舎に通えなくなる、通わせてくださいと頼んだとしてももう通えません。それは何を意味するでしょう?

……それは、ここにいるあなたたちの友人やわたしたち教師と、約束せずに会える関係ではなくなるということです。これまで学校に来ればあたりまえに会えていた存在に、これからは約束しなければ会えなくなります」

 

当時は、(至極当然のことを言っているな)と思い聞き流していた。仲のいい友だちとは会い続けるだろう。SNSを見れば近況も把握できる。会おう!と一言LINEすれば会えるのだから、卒業したってなんてことはないと思っていた。

 

高校を卒業して早7年。

会いたい人とも会いたくない人ともいっしょくたにされて、同じ教室で授業を受けたりお弁当を食べたりしていた空間から卒業してからしばらく経った。わたしはもう、いい大人だ。あのころと比べ物にならないくらいの自由を手に入れた。会いたい人に会う自由と、会いたくない人に会わない自由。

 

約束を取り付けて、人に会う。能動的な行為でありながら、受動的な行為でもある。

会いたくないと思われたら、こちらがいくら願おうと会えないからだ。実際のところ相手は白黒はっきりつかない感情を抱いているのかもしれない。だけどそれはこちらにはわからない。知る権利すら与えられない。

 

約束しなければ会えない人と、縁をつなげていくのはなかなかに大変だ。これは容易いことではない。卒業の際に、先生がわたしたちに伝えたかったのはこれだったのかと今になって合点がいった。気づけば急に焦りが芽生える。日々の時間の使い方が今の自分をつくっていると自覚した。

 

わたしは、誰かにとっての「会いたい人」だろうか。果たされなかった約束が脳裏をよぎる。触れられなかった温度を思い少し震える。

 

知り合うところまでは「運命」の一言で足りるのかもしれない。手を取り合う関係を築くのはその先で、約束を交わして、それこそお互いを"知り合う"時間が必要だ。会いたいと思ってもらえる人でありたい。わたしだってあなたに会いたい。