見つけておねがい見つけないで

幸福は証明できない

ワニの死に便乗したとか

この文章は、以下文章に対する返歌だと思ってほしい。

note.com

上記文章で書かれている、事の経緯を簡単にまとめると、「話題になっていたワニが死んだとき、Twitterで『ワニを追悼するイラスト』をあげたら叩かれた」って話だ。

人の感情は人のもの

このワニの件で言えば、ワニが死んだ悲しみって全世界、全ワニの物語を読んだ人がすべからく共感し、理解しなければいけない気持ちなんですかね……?

悲しい気持ちもそうだけど、君が好きとか、あの柄が気持ち悪いとか……、自分にとっては見過ごせない感情と思ってても、他人に理解してもらえないとか、相手に伝わらないなんてことは山のようにあるじゃない?そういうとき、理解してくれない人や伝えたい人の胸ぐらを掴んで、耳元で言って聞かせるの??そうしたら伝わる?伝わったことある?

ないよね。正直あなたの感情ごとき、他人は知ったこっちゃない。

 

ワニが死んで悲しかった人はいるかもしれないけど、そもそもワニに興味がない人もいるしワニが死んでもなんとも思わない人もいるし、ワニ?なにそれって人も世界にはたくさんいる。

気持ちが伝わらなくて少し悲しくて、でもまあ仕方ないかと諦めることは、会社とか学校とか家庭とかで往々にしてある。インターネット上でも同じことではないかね?

 

批判の背景には「悲しむべきだ」という感情の押し付けがあるように思う。

私はこんなに悲しいのに……!みんな悲しんでるのに……!死んだのに……!

それって自分以外の誰かに、抱く”べき”感情を押し付けていい理由になる?

人の気持ちは人のもの。理解しろ!わかって当然だ!なぜ共感しない?と本人とっ捕まえて伝えるのは、おかしな話かと。感情の所有権。

人の行動から気持ちが導かれるとは限らない

言い方を変えると、「〇〇という行動をとってるからには▲▲と思っているに違いない」という考え方も、感情の押し付けと同様、乱暴だなあだと思う。今回の件でいうと、「死んでしまったワニのイラストを描いて投稿するなんて、この人は悲しんでいないに違いない」という決めつけ。ちなみに本人は「追悼」と言ってるのに、悲しんでないだろ!って……もうそう思いたいだけじゃん。

 

もっと悲しむべきなのに(抱くべき感情の押し付け)+イラストを描くなんて悲しんでないに違いない(他人の感情を決めてかかる)。もしそういう理屈で怒ってるのなら、ちょっと考えてみてほしい。

そもそも追悼の意をあらわすにはさまざまな方法があるんではなかろうか。その方法が、自分が思っている”追悼”のやり方でなければ気が済まないの?

 

もしかしたらイラストを描きながら泣いてたかもしれないし、ワニの特徴を捉えるために何日もさかのぼってオリジナルの絵を見ていたかもしれない。それでこれまでのワニの笑顔を見て(なんて切ないんだ〜〜〜)と思ってたかも。

もしかしたらもっと野次馬的な気持ちでやった可能性もあるし、ワニのことなんてなんとも思ってなかったかもしれないね。

でもそれは他人には”””分からない”””よ。あのね、ひとつの行動を切り取って、そこから人が何を思ってたかなんて、そのすべてが分かるとは到底思えません。

 

顔では笑っているものの心の中で泣いてたり、泣いてはいるけど心臓のあたりにはりつてた泥が落ちてくような爽快感を感じたりという具合に、人の感情は複雑じゃない?自分ですら、自分の感情がわからないときがあるくらい。それなのに、どうして他人の感情はそんなに分かりやすく、紋切り型に分類できると思っちゃうんでしょうね……。

 

”””分からない”””から悩むし、想像するし、それでもたぶんわからない。他人の気持ちを考えて寄り添えるとか、人の気持ちが分かると思ってる人より、他人の感情が分からないと言っている人のほうがわたしは好きですね。

ワニよりも感性が死ぬことのほうがこわい

何かを感じたり、情報を受け取ったりするシーンは無数にある。文章を読んだり絵を観たりドラマや映画を鑑賞したり誰かの発言を聞いたり、無数にある。そのときに「こう受け取るべきだ」を定義することは誰にもできない。狙いを込めたりメッセージを含ませるのは自由だけどそれは願望であり、受け取る側に強制できるもんじゃあない。

自由があってほしいと思う。まあでも自由ってのはむずかしくて、どこからどこまでなら自由の範疇かっていうのを見誤ると、とんでもないことになる。狭すぎると窮屈で、発する側はなんにも言えないし、受け取る側は記号的な受け取り方しかできなくなる。逆に広すぎると、なんでもあり、ヘイトスピーチも誹謗中傷も。そんな世界は望んでない。

傷つくなというのも、傷つけるなというのも、とにかくこの人間社会ではむずかしくて、わたしの思考はここまでなんだけど、もうそろそろ朝だ。

 

人の感情なんてどこまでいってもわからないですよ。だからこそ「伝える側に立とう」とひとたび決意したときや、感情を伝えなければならないシーンでは、できるだけ相手にわかってもらえるように、わかってもらえますようにと願いを込めながら、伝えるわけです。上で紹介した記事を書いた人は、現実世界で人と接してるとき、記事を書くとき、真摯に取り組んでいるなあと ”わたしは” 日頃思っています。その姿に心を動かされたり助けられたりしてきましたから。「動じるから人間だ」というのはこの人も仰ってるとおりで、悩むのも、それだって人の自由だからこの記事を書いた方に悩まないでとは言えません。そんなことを言うつもりもありません。ただワニの件に限らず、「人の気持ちが理解できない」人だとは”わたしは”思わないし、それをいったら誰もみな、他人の気持ちを正確に分かる人なんていないと思っています。

 

ワニさんと、ワニさんの絵を描くきっかけになった(かもしれない)ご友人のご冥福をお祈りします。おやすみ世界。