金原ひとみ著『アタラクシア』埋まらない穴を抱えてみんな生きてる
日々は積み上げていくものではなくただ過ぎゆき、人生の出来事に連続性などないと考えていて、人に執着心をもたない主人公の由依は、いつも潔く他人にまるで期待しない。人間味に欠けているものの、他人に相対するときの理想のスタンスを体現しているキャラクターだ。
主人公が、煩悩に支配され続ける妹に向けて放った「私は何も話さない」という台詞は、孤独を孤独と思わない彼女らしい一言である。
由依の潔さを少しは見習いたいのだけど、やはり煩悩に支配される側のわたしは、欲にまみれた言葉を使うことをやめられない。
君は空気になっていいよと言われたら
夢とか愛とかはっきりしないものの定義にはじまり、あらゆる人間関係、仕事で成し遂げたいこと......生きているとさまざまな場面で、理由や現象の言語化が求められる。言葉に示した答えが正しいかどうかなんてわかならいし、時が経つにつれて以前出した答えだと思って口に出した言葉が誤りだったなんてことを、幾度となく繰り返してきた。
最近では、言葉なんてその場しのぎのツールでしかない、誰かが放つ言葉や自分が使った言葉に納得したり共感したりしていることがひどくばからしいと思うようになった。
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目の前で起きている事象、自分や他人の感情をうまく言語化できると、「そうそれ!」と周囲の人が反応してくれる。なんとなく見ていたものや感じていたことを、明らかにしてもらえたのが気持ちよかったんだろう。
人の反応は、表面上いつも好意的だった。TwitterやFacebookでいうところのイイね!みたいな反応だ。共感を受けてわたしたちの間にはゆるりとしたつながりがうまれる。さらに関係を深めようとしたとき、それは錯覚だったと気づかされるのだが......大人数で構成されるコミュニティに入っていきその一員としてカウントされるには十分なつながりだった。
言葉にすることによって人から反応をもらえると、ここに存在していてもよいと言われている気がしてその度に安堵した。
こうして社会に溶け込むことを「社会性」と呼ぶのだとしたら、わたしはかなり後天的に、多くの人よりは遅れて身につけたように思う。集団のなかで、ほかの人たちが話している内容についていけないし、みんなが笑っている理由がよくわからない。まるで興味がわかない。誰がなにを喋っていてもどうでもよかった。べつに話すことなんてなにもないとも思っていた。
けれどそれでは、社会というフィールドで生きていけないのではないかと急に不安になり、それからは自分でも驚くほど流暢に言葉を使いはじめた。人からわかってもらうこと、共感してもらうことを意識して喋りはじめた。共感を求めてなにかを喋る姿は、たいてい滑稽に映る。そして拙い言葉であっても話題を提供している者に対して、人は寛容だ。いや、滑稽だから寛容な気持ちで接してもらえるのかもしれない。
受け入れてもらうため、わたしは異質でないですよとアピールするために、よく選んで頭をフル回転させながら喋った。それが板につきはじめたところで、欲求が別の方向に膨らんでいくのを自分でも感じていた。「仲間はずれにされたくない」というような消極的な理由だったのが、人の心を奪ったり上書きしたり、下を向いている人の顔をこちらに向かせたいがために言葉を選ぶようになっていた。
言葉にこだわっているふりをして、結局のところ欲しかったのはいつも人からの承認、もっといえば賞賛だ。このところ使う言葉すべてが、承認や賞賛に対する執着心を形にしたものでしかなくなった。わたしの使う言葉はいつも「わかってくれ」に意訳されるものばかりだった。
過度な期待を滲ませながら喋り続けるさまは、四六時中目を潤ませて足元をちろちろしているチワワのようだ。心の中で生まれたチワワを飼いきれなくなって、捨てようとしている。
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運命を司っている神様みたいな存在が目の前に降りてきて、「君は一生、空気みたいに生きていてもいいよ、それでも生かしてあげるよ」って言われたら、あらゆる言語化を放りだす自信がある。誰とも関わらず何にも執着せずに生きていられるなら、他人に向ける言葉なんてわたしは簡単に手放すだろう。
それでも欲は捨てられないし空気にもなれないわたしたちは
本来、他人と話すべきことはそれほど多くなくて、「新しく買ったバスタオルは吸水力が高くてお風呂上がりに濡れた体を一瞬で拭けるんだよ」とか「果汁グミは桃味がいちばんおいしくてぶどう味は作り物の味がするよね」とか、そういう類の話をしていたい。意図のない会話を頭を空っぽにした状態でしていたいのだ。
たとえば結婚したら、もう恋愛市場で媚を売ったりしなくてよくなってひとつ言葉を捨てられるかもしれない。
あまり物を考えたくないとき、つい「結婚したい」と口走ってしまうのは、結婚にこんな幻想を求めているからだろう。なぜ結婚したいなどと言っているのか、自分でも不思議だったけどもしあえて言葉で理由をつけるとするなら喋りたくないから、執着から解放されたいからだ。わたしの存在を認めてるかどうかいちいち試すように言葉を使わなくても、社会の一員としてみなされたいし、好きな人に愛されたい。
わがままな願いなんだろうか。そもそもこの願いは承認欲求なんだろうか......ああまた言葉を用いて、これは純粋な人としての欲求で承認欲などではないですよと説明して回りたいような気持ちだ。
「アタラクシア」は古代ギリシアの哲学の概念で、心の平静不動の状態のことらしい。言葉を捨てるのが先か、他者に対する欲を捨てるのが先か。でも後者は捨てられそうにない。死にたいとか人間をやめたいとかではなくて、空気のように誰の目にも見えない状態でただ浮遊していたい。
その状態をイメージするとアタラクシアに近づけた気がして、心が落ち着く。そんな気がする。
だけど幸か不幸か、わたしは骨で組み立てられ肉で覆われている箱をもつ人間だから、空気にはなれない。お金を稼ぐために仕事をし孤独に耐えられず人と会話するから、暗喩としての空気にもなれない。
「アタラクシア」を手に入れるにはどうしたらいいのだろう。
チワワの目をやめよ、期待しないというマナー
共感を求め、「わかってほしい」と思いながら発される言葉には、(この人は、この場は、わかってくれるだろうと)甘く淡い期待が絡む。ちょっと安全らしいところで自分を試しているんだろう。そういうずるくて中途半端なところがチワワの目の正体だ。
万が一、共感や理解を得られなかったらその期待が外れた衝撃で、心は大きく揺さぶられるし、狙いどおりに受け入れられてどんなにわかってもらったところで、なぜだか欲の穴は埋まらない。
静かに水が流れ込む、土に掘られた穴のように満たされてると思いきやいつの間にか侵食されているのだ。
「仲間にしてください」「わたしをわかって、受けいれてください」とこうべを垂れた物言いをしても、結局埋まりきらないものを抱えてわたしたちは生きている。
勝手に人を選別し、期待を含めて言葉をこさえても、届かないことだってある。
だけどわたしたちは人間で、空気にはなれないからどうしても言葉を使って生きていかなければならなくて。
ならば最初から期待などしない。これは達観とか諦観の類ではなくて、滑らかに穏やかに生きていくための必須事項なのかもしれない。
彼女は、この小説の主人公である由依はそれに気づいている。
そもそも「言葉なんて」と意味を伝えるための記号と解釈する人すらこの世にはごまんといる。どんな意図をもってワードを選んだかとか、「受け入れてもらおう」とこすい狙いをもって、会話していることを知る由もなく、というかそんなことはどうでもいいとばかりに意味だけを汲む人もいる。沈殿物には気づかずに上澄み液をすくって飲むようなコミュニケーション。そんなときわたしたちは、肩透かしを食らったような感覚がある反面、自分の狙いに気づかれていないことに内心ちょっとだけ安堵するのだ。
だけど話の続きを聞いてくれようとする、興味をもってくれてるみたい。もしかしたら理解も共感もされないかもしれないけど、続きを聞いてくれるなら言葉を尽くして説明するよ。ああ、「あのね......」
気づけば、他人と言葉を交わすときに体のまわりをうっすら覆っていた膜のような恐れが、薄れていくのを感じる。そのうちもう承認も賞賛もどうでもよくなってくるだろう。
チワワの目にどれほどの力があろうか。共感や理解を求めて繰り出す言葉より、伝えることだけに純粋に焦点を絞った言葉の方が透明で美しい。
たとえば、「『何者かになりたい』なんていうバケモノみたいな欲求に立ち向かうにはどうしたらいいかな」と聞いたとして、まるで伝わらず「なに言ってんの?」と笑ってくれる人が近くにいたら、くだらない煩悩と向き合う勇気をもらえるんじゃないかなんて。
そんな欲をかけばそれはまた期待に過ぎず、あっけなく振り出しに戻ることになる。