見つけておねがい見つけないで

幸福は証明できない

雑音は雑音でいいのでは?

行き交う人の表情を見ること、職場や家族など近しい関係の人から発される言葉を聞くこと、そのすべてに返報していたわけではないのに、毎日、毎日、そういった活動にかなり多くのエネルギーを投入していたと気づいた。自分の周りに「他者」の気配があるだけで、いったいわたしの何が吸い取られるというのだろう? でもそれが事実だった。家から出ずに過ごし、他者の存在を完全にないものとした今、有り余るエネルギーを噛み締めている。同時に、”楽しむ”という感情は受け身では生まれないことに気がついた。物事を楽しむのって結構なエネルギーを必要とする。文章を書くことや読むこと、考え事や料理などを楽しみたいと思いながらも、これまでできずにいたのは、それに必要とされるだけのエネルギーが残っていなかった(その分、別のところで消耗していた)からだろう。肝臓も腎臓も最低限しか機能せず、代謝も悪い「わたしらしいな……」と思った。

 

楽しめていないときほど、ピントがずれまくった方向にあれこれ考えてしまいがちだ。不完全なのがわかってるからこその、こだわりというのか? もっと、もっと、もっと考えなければ。これじゃだめだ、何も出てこない、絶望、もうだめだ、のスパイラルに陥ってしまう。それで、なけなしのエネルギーすらも使ってしまって次の朝を迎えることが多かった。夢の中と書いて夢中。夢中になれているときは、自然と「他者」をシャットダウンしているぶん、純度の高い思考が出来ているように思う。日常生活、いかに雑音が多いことか。いま「雑音」なんて強い言葉を使ったら、おもむろに「他者」が出てきて「それは違うよ、必要な問いかけだよ、気遣いだよ」と話しかけてきた気がするけど。まあそれは一理あるって、これまで25年間ずっと「他者」を内部化してきたわたしはもうそろそろ、「いったん無視させて」のスタンスをとってもいいんじゃないかと思い始めた。 そもそもエネルギーが人より少ないことを自覚して物事に取り組むべきなのだ。逆に、ただそれだけのことで、別に楽しむ素質がないとか性格が悪いとかではなく、物事を楽しむための勘所を押さえることさえできれば自ずと道が開けてくる気がした。苦しみながら書けとか、そんなに楽じゃないでしょう?という声も聞こえてくるがしかし、時代の潮流に乗ることを考えると、苦しみながら生み出した血みどろの傑作を読んでもらうことにそれほど価値はないんじゃないのかな。

 

いまは非日常。(幸か不幸か、現在の状態は日常ではないのだ。)外出を再開したとき、勇気をもって「他者」の気配を無視するスタンス。(共生って美しいけど優先すべきはそれじゃない。)せっかくなら楽しく、言葉とあと日常も、紡いでいけたらいいなと思う。