見つけておねがい見つけないで

幸福は証明できない

傷つかない、さびない。決断はステンレス

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長いこと、夢を隠して生きてきた。

 

家族や友だちなど周囲に対して秘密にしていたというより、自分ですら気づかないところにしまいこんでいたという方が正しい。

 

夢を自覚しないように、目を瞑ったまま、意識の底に隠すのだ。だって叶わない、たぶん叶わない、そんな現実に気づいてしまうと心が痛むから。

それでもふとした拍子に、ふたを開けて出てきてしまう、厄介な夢。

 

「作家になって、小説を出したい」

 

夢には足でもはえているのだろうか?

 

#「迷い」と「決断」

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夢を叶えるには、誰かに見つけてもらわなきゃいけないのに

夢が表に出てくるのは決まっていた。日常生活でつまずいたとき。

例えば、仕事でミスして落ち込んだとき、彼氏がYoutuberとしてうまくいきそうな雰囲気を醸し出しているとき。(どうしても自分と比べてしまって、彼氏の吉報ですら素直に喜べなかった......)

 

ずるい私は、現実逃避をしたくなったときだけ都合よく夢を利用していた。

 

「私だって、いつか本を出すんだ」

 

そう心の中で息巻いたって、結局は公募の賞に出しもしなければ、他人に見せるための文章を書くこともしなかった。

書き始めようとしても出だしが浮かばない。小説のワンシーンを書き終えると力尽きる。続きは書けない。もはや書きたいことなんてなかったのかも?技術もないし。そう気づいて呆然とする。

完結しない小説のワードファイルが溜まっていった。

 

公募以外にも、世の中に出ていく手段はある。

TwitterInstagramなどのSNSを使った、「私は〇〇ができるから仕事があったら依頼して!」「今度はこんな挑戦をしてみたから応援してほしい!」といった発信活動はその一環。自ら発信する、迷っている暇があれば行動することが良しとされる風潮。それが後押しして、SNSをきっかけに羽ばたいていった作家がいるのも知っていた。

だけど私は、毎日ただタイムラインを追っているばかりで、「私の書いた文章を読んでください」とは打ち込めなかった。

 

 

昔、中学生の頃に体育の授業でやらされたバスケやサッカーの試合を思い出す。

私は、自分に敵のマークが付いてなくて、しかもゴールにいちばん近いポジションにいるときでさえ、「へい!こっち!パス!」と手を高くあげて、味方を呼ぶことができなかった。

いちおう小さい声で、( あいてるよー......)などと呟いてみても、誰にも気づかれないから、迷った末に肩のあたりまで手を挙げてみる。

でももう遅い、ボールも人だかりも、すでに遠くへ移動している。

元来私は、自信がないらしい。

 

夢を叶えるには誰かに見つけてもらわなきゃ。

そのためには作って書いて売って!どんどん自分から出ていかないといけないのに!

それができない。できない自分に、夢を抱く権利なんてあるのだろうか。でもなりたい気持ちはうそじゃない。

 

夢とどう向き合えばいいかわからなかった。

自覚はなかったけど、手の中に選択肢がない状態で迷っていたのだと思う。

 

ただ、ただ吐き出した文章が、まさかのところに着地した

迷いながらも、「書きたい」気持ちは消えなかった。

いつか夢を叶えている自分を、いないことにはできなかった。

 

気持ちがぐちゃぐちゃになったある日、ただ感情を吐き出す場所ほしさに、ブログを作った。それがこのブログだ。

見つけてってお願いしながら、見つけないでっていう、あまのじゃくなタイトル。

 

ブログを作ったときは、誰かに「伝えたい」ことなんてひとつたりともなかったし、日々の生活の中で私が感じた感情を誰かと共有したいとも思わなかった。

 

ただ、心が抱えきれなくなった感情を気の向くままに書いて、置いておく場所が必要だっただけ。

 

私が書いた文章なんて誰に届くもんかと思いながら、やけくそでブログを作ったことはなんの決断でもなかった。

読まれなきゃいいと思いながら書くブログなんて、もはや暴走だ。

 

 

そんな暴走を続けていた今年5月の連休明け、予期せぬ出来事が起きた。

 

私が書いた『さよなら、ニルヴァーナ』という小説の感想文(書評ではない)を、著者の窪美澄さんご本人が読んでくれたのだ。しかも、ブログ記事をご自身のTwitterで紹介して、コメントまでくれた。

 

そこには、

“読んでいて体温が上がる文章だった” と記されていて。

 

見た瞬間泣いた。めっちゃ泣いた。

この感動はたぶん一生忘れない。

 

 

私もです、私も、あなたの書いた小説を高校生の頃に読みました。ラストシーン、最後の行を読みきった時、思わず空を見上げてしまった。大きく息を吸って、吐いて。部屋の中だったけど。ブワッとしたんです、風が吹いたんです。

当時何に苦しんでいたかなんてもう忘れてしまったけど、そのとき私は、たしかに救われたんです。

 

 

憧れの作家さんに自分の書いた文章を読んでもらえるなんて、作家デビューしなきゃ、それか文芸誌の新人賞の最終候補にでもならなきゃ、絶対に叶わないと思っていたのに。

 

あろうことか、

「どうせ届かない、だったら別に、届けない」

そんな開き直りとやけくそな気持ちで、だけど全身全霊で、自分が感じたことをただ、出して、出して、出しきるために書いた文章が、夢のきっかけをくれた人に届いてしまうなんて。

 

 

この体験が私を変えた。夢への向き合いかたから、迷いをとっぱらった。

 

 

「夢に近づくためには発信しなきゃ」「作家になるためにはまず書かなきゃ」「人に届けるには伝わりやすい文章を......」「読んでもらえる文章とは......」

以前はこうやって、りきんで凄んで、目的を達成するには?と仰々しく考え込んではつまずき、卑屈になっていた。

誰かのまねをして発信めいたことをしても、結局は自意識がギロリと睨みつけてきて、続ける気なんておきなかった。

 

 

だけど、ただ書いていたら運よく伝わったから。繋がったから!もしかしたらまたどこかで同じことが起きるかもしれない。

 

 

この体験を機に、「届くといい、きっとどこかで、なにかと繋がるはずだ」と思えるようになった。曇っていた空が、晴れはじめた気がする。

 

届きますように、と祈りながら書き続ける。これが私の決断だ。

 

===

 

結局、私は書いた結果、運よく届いたのだけど、世間でよく言われているような「悩むな!動け!」「とにかくやってみることが大事!」の理屈とは違う。

もっと静かな祈りに近い気持ちだし、決断とは言いつつちょっと運とか他力本願的な余白がある。

 

 

なにかを達成するために始めること、挑戦すること、覚悟を決めること。

これらは立派な決断だ。たぶん人を強くする。

 

 

だけど、もっとやわらかくてカラフルな決断があってもいいはずだ。

達成したい目的なんてなくっても王道でなくても、夢がいつか叶えばといいなって少しだけ期待しながら、もしくは、いつかどこかに繋がってほしいと祈りながら、なにかを始める、続けると決めること。地味だけど、これだって決断だ。

 

 

傷つかないし錆びない決断。意外と強度がある、ステンレスみたいに。

 

 

変わったなあ。なにがなんでも絶対に作家になるぞ!なれなかったらダメだダメだ!とも思っていないし、どうせ誰にも届かない、作家になんてなれるわけない......と卑屈になってもいない。

 

りきまず、日常と喧嘩せず、いまは夢と向き合えている。