見つけておねがい見つけないで

幸福は証明できない

覚悟を決めなきゃ読めない本がある

本を開き文字を追っている最中、頭の中に鮮明な光景が広がった時や脳の神経が手触りを認識した時、本を閉じてしまう。一旦本を閉じて、脳裏に浮かぶ光景を融かすように寝ることもある。寝ない時は、息を深く吸い込んで、自分が生きている世界を確かめる。こうして現実とノンフィクションの間を行ったり来たりするのは、ものすごくエネルギーを使うから疲れるけど何度となく繰り返したくなる。

 

窪美澄の『さよなら、ニルヴァーナ』を読んでいる。

さよなら、ニルヴァーナ

さよなら、ニルヴァーナ

 

14歳の時に、7歳の女児を殺害し、その頭部を教会の前に置いた少年A。その少年にどうしようもなく惹かれ、日本のどこかでひっそりと暮らす彼を探す少女・莢(さや)。ふとしたきっかけで莢と知り合い、その姿に亡き娘を重ね合わせていく被害者の母親。引き寄せ合うようにつながっていく彼らを、輪の外から傍観するしかない作家志望の女・今日子。『さよなら、ニルヴァーナ』は、神戸連続児童殺傷事件を題材に、カルト教団や2度の大震災を絡ませ、人間の深奥をえぐる物語だ。

引用:https://hon-hikidashi.jp/enjoy/2009/

 

出版されてすぐの頃、本屋でこの本を手に取ったが、「少年A」「遺族」「震災」「神戸」と並ぶワードに不気味さを覚えた。……神戸連続児童殺傷事件についての私の記憶は、テレビに映された「学校の門」の映像だけだ。事件の深潭を覗くのは、どうしても気がすすまなかった。理由はいくつもあるのだろうが、言語化できるのは、本を読んだ結果、自分の中に流れ込むいろんな感情を、うまく排出できるとは思えなかったと理由。何かわからないものがこびりついて頭のどこかに残ってしまうような気がした。同時に、それは数日経ったら、かさぶたのように落ちていくことも分かっていた。

 

この事件を、薄っぺらい同情や悲しみを追体験して満足するための道具として使ってしまうのは、あまりに人道的でない気がして、手にとった本を棚に戻した。

 

そんな、本屋での小さな葛藤から4年ほど経ち、今なぜこの本を読む気になったのか。消化できない物事をある程度許せようになったから?流れ込んできた激流を、多少なりとも排出する筆力がついてきたという自負から?(恐れ多い、無理かもしれないけど)

それもなくはないが、核心ではない。

 

直近の4年間に何があったというわけでもないが大学生から社会人になり、なんとなく、感覚的にではあるが、人は案外、希望なんてなくても生きていけるのではないかと薄々感じるようになった。何もないところから何かを見出そうと試みるのも人間、だけど何もなくたって、生きている人はたくさんいるのかもしれない。

この物語に希望はないし、事実において残されたのは絶望だけだ。何も得られない。生まれない。更新もされない。戻りもしなければ、日にちを跨いですすむこともない。そういう場所で生きている人たちが多分、いる。

今はそれをしっかりと咀嚼したい思いで、本を読み進めている。希望と絶望は対極に位置するものではないのだから。