見つけておねがい見つけないで

幸福は証明できない

人に愛される方法は「小さな女の子」が知っている


私は根本的に自分自身に対して懐疑的すぎる。信頼していないし、すぐに自分には価値がないと思いたがる。


自分のこととなると、客観性も感情も無視して、「とりあえず」自己否定に走りがちな私にとって、自分を否定せず物事を建設的に、バイアスをできるだけ小さくして思考するための唯一の策が、擬人化だった。


数年前まで、感情を表に出すことが苦手だった。苦手である以前に、他者に感情をぶつけることは悪だと思っていた。

「私の感情なんて、世界にとっても目の前の相手にとっても、全く留意されるべきものではないよね。感情的になってなにかを主張するのは、相手に自分の欲望を叶えろと強制しているのと同じで、私にそのような権利はない。私の感情は無価値。誰に対しても主張するに値しない。」という理屈だった。

大義もない、取るに足らない私の感情なんて、誰にとってもどうでもいいものに決まっているから、それを理解してもらおうとして他人様にアピールするなんて恥ずかしいったらありゃしない。そう思っていたし、この理屈が正しいと信じていた。


しかし、悲しい時に「悲しい」、ムカつく時に「ムカつく」と表明しない私は、大学時代、人から(主に同年代の男性)「素直じゃないね」とよく言われた。「素直じゃないとモテないよ、かわいくないよ」とも言われて、落ち込んだのを覚えている。


当時大学3年生、21歳だった私は、どうやら世界は、素直な人間を求めているらしいと気づいた。素直な人間が可愛がられ、生きていきやすい世の中であるらしいことを、彼らから向けられる言葉を通して、徐々に理解した。素直にならなければ。


でも「素直になる」ってどうしたらいいんだ?赤ちゃんにみたいに、感情を出しまくればいいのか。でも価値がないものを垂れ流すことが求められているってどういうこと?それとも、たとえ私の感情がどうであろうと関係なく、感情をあらわにしさえすれば、「この人は素直だ」と思ってもらえるのだろうか……。


素直になるとは何なのか、一体どうしたらいいのだろうか?と、半年ほど考え、思考過程をまとめたノートはまだどこかにとってある。


素直になる=感情をあらわにすること、表明すること 、だとしたら、怒った時は怒っているんだ!と、嬉しい時は嬉しい!ハッピー!と、そうであることが伝わるように言葉や態度で表明しなければならない。ただ当時の私は、自分の感情ほど価値のないものはこの世にないくらいに思っていたから、自分の感情を把握するところから始めなければならなかった。

事あるごとに、今はどういう気分?と心の中で自分に尋ねた。うれしい、たのしい、ワクワクする、やってみたい、行きたい、行きたくない、かなしい、おこっている、残念だ、嫌だ……

感情や欲求を言語化するように努めた。


例えば、友達にドタキャンされた時。これまでは、何も思わないようにすることこそが正解だと思っていたし、まして何か思ったことを相手に主張するのは筋が違うと思っていた。でも、事実に対して正直に、「今どんな気持ち?普通は、悲しいとかムカつくとか、時間を無駄にした!と思って、相手に抗議をすることもあるみたい」と、いちいち分析し自分自身に伺った。「私も悲しい気持ちだけ。会えると思っていたのに、期待を裏切られたようで残念」


同時に、「だからどうした」という声が聞こえてくる。その声が感情をかき消そうとする。「そんなことはどうでもいいだろ、ドタキャンされたのに変わりはない、お前の気持ちに事実を変える力もなければ、相手を動かす力もない、無駄だ」と。


素直になるのは難しい。無駄だから捨てろと言われても、感情を捨てずにとっておかなければならない。表明するために、把握し続けていないとならない。

どうしようか悩んだ挙句、感情を言語として把握するのではなく、感情をあらわにした人間の姿として把握しようと試みた。その日から私の心の中には、「小さな女の子」が住んでいる。


小さな女の子だから、感情をあらわにすることは非難されない。会いたくてたまらなかった大好きな人にドタキャンをされたら、当たり前のように泣く。残念な気持ちと、ひどいなと相手を責める気持ちをもって、ベッドを涙で濡らしていた。その光景をイメージして、自分の感情を把握するように努めた。

小さな女の子は、嬉しい時、お庭に出てスキップをするし、楽しい時はゲラゲラ笑う。ケーキを食べながら喜んでいることもあるし、感動したらティッシュで涙を拭う。怒って花瓶を割ることもあるし、口をきかずに黙り込むこともある。だんだん、物事に向き合うたびに小さな女の子が躍動するのが分かってきたし、それが心地よくなった。彼女の表情は、私の「素直な」感情を表していたし、彼女のとっている行動こそが、私が誰かに感情を伝える時にとるべき行動だった。


そのうち、だんだんと彼女に愛おしさを覚えるようになった。その頃から、意識に彼女を介在させずに、感情表現することができるようになった。今となっては、物事や他人の言葉に対して、すぐに感情を表明できる。感情が無価値だとも思っていない。人から「素直だ」と評されることも増えた。


感情を擬人化することで、自分以外の人格として扱うようになった。感情を、一歩外から観察することで、歪めず把握し、否定せず受け入れられるようになったのだと思う。


今、とても感情的な人間になれて、生きやすさが半端ないし、やっぱり素直な方が人からの愛をもらいやすい。特に、嬉しい、気持ちがいい、楽しいといったプラスの感情表現を積極的にすると人から好かれる。逆に大切な人に対しては、大人気ないくらい怒ったり、悲しんで泣いたりして、気持ちをぶつける。


なぜなら、小さな女の子が喜んでいる姿や、泣いている姿はどれも愛おしいものだったから。喜んでいる時は彼女の元までハイタッチしに行ったし、泣いている時は抱きしめに行った。私の感情も、私自身も同じように扱われてもいいはずだ。私と一緒に喜んでほしいし、もし泣いてたら抱きしめてほしい。感情をあらわにしたら、誰かが来てくれるかもしれないし、好きな人が抱きしめてくれるかもしれない。


小さな女の子のおかげで、他人に期待することを自分に許せた。未知の世界と愛する人への手の伸ばし方は、すべて小さな女の子のやり方を真似している。